現在高校1年生も終盤を迎えた息子を見ていて思うのですが、息子の不登校の理由は、むしろ高校生の不登校の理由に近かったのではないかと思っています。
■中学校までの不登校――「安心」が揺らいだ状態
中学校までの不登校は、
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学校が怖い
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人間関係がつらい
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体調が悪くなる
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行きたいけれど行けない
といった形で表れることが多くあります。
この時期の子どもは、まだ自分の感情や不安を十分に言葉にできず、心や身体の反応として限界を示します。
背景には、
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安心できる関係の欠如
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失敗体験の積み重なり
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管理や同調への疲弊
などがあり、
不登校は「怠け」ではなく、環境への適応限界のサインとして現れます。
義務教育という制度の中では、「学校に行くこと」が前提とされ、支援も「どう戻すか」に向かいやすい。
この段階で必要なのは、進路や学習の話以前に、安心・安全・関係性を取り戻すことです。
■高校の不登校――「意味」が見えなくなった状態
一方で、高校の不登校は様相が変わります。
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勉強する意味がわからない
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努力しても報われない感じがする
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周囲は普通にやれているのに、自分だけできない
こうした言葉が前面に出てくることが増えます。
これは、単なる学校不適応というより、学び・社会・自己との関係そのものへの問いが立ち上がっている状態です。
高校生は、進路・単位・将来といった選択を突きつけられ、形式上は「自己責任」の主体として扱われます。
その中で、「このレールに乗る意味はあるのか」「自分は何者として生きていくのか」
という問いが、避けられない形で浮かび上がってきます。
高校の不登校は、意味が崩れた結果として立ち止まる、そんな側面を強く持っています。
■我が子の不登校を振り返って
我が子は中学生のときに不登校になりましたが、その理由を振り返ると、いわゆる「中学生らしい不登校」とは少し違っていたように思います。
本人の中にあったのは、
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学校に行く意味が見えなくなったこと
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管理される違和感
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周囲と自分を比べたときの強い違和感
といった、高校生の不登校に近い問いでした。
「行きたくない」というより、「納得できない」「意味が見えない」という感覚。
それは、年齢よりも早く、世界や制度を俯瞰して見てしまった結果だったのかもしれません
■中学校と高校のあいだにある“断絶”
中学までは「管理対象」、高校からは「自主性を重んじる」。
この切り替え自体は、理念としては決して悪いものではありません。
ただし問題は、その切り替えが年齢一律で行われることです。
成長の早い子は、中学の強い管理や一斉指導に息苦しさを覚えやすく、「なぜ従わなければならないのか」「この学びに意味はあるのか」と、本質的な問いを早くから抱え込みがちです。
一方で、成長がゆっくりな子は、中学までの手厚い管理の中では何とかやれていても、
高校で急に求められる自己管理や自己決定に戸惑い、不安や混乱を大きくしてしまうことがあります。
つまり、中学が合わない子と高校が合わない子は、資質の優劣ではなく、制度のリズムと個々の発達のタイミングが合っていないだけなのです。
ここで見えてくるのは、中学校と高校のあいだにある、制度の急激な切り替えです。
中学校までは、細かく管理され、行かなくても誰かが何とかしてくれる構造があります。
一方、高校では突然、
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自分で選ぶ
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自分で管理する
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結果を引き受ける
ことが求められます。
この切り替えにうまく適応できないと、高校では「幼く見える不登校」も生まれます。
つまり、高校の不登校には、
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意味を問いすぎて立ち止まるタイプ
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管理から自立への移行に耐えきれないタイプ
という、異なる背景を持つ不登校が混在しているのです。
■不登校を「問題」ではなく「ズレ」として見る
中学校までの不登校と高校の不登校は、どちらが重い・軽いという話ではありません。
それぞれ、
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発達段階
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社会からの要求
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教育制度の構造
とのズレが、表に出た形にすぎません。
不登校は、「直すべき問題」ではなく、構造と個人のあいだに生じた不一致のサイン。
そう捉え直すことで、支援の方向も、「元に戻す」から「その子に合う学びと生き方を探す」へと変わっていくのではないでしょうか。