毎晩くり返される音読の宿題。
ふと気づきました。“読む”より前に、“読みたい”が育っていないと。
このエピソードは、わたし自身の親としての反省でもあり、学校のあり方への問いでもあります。
◆毎日続く、音読の宿題
当時わが子の通う小学校では、音読の宿題が毎日出されました。国語の教科書を指定ページ分、声に出して読んで、保護者がサインする──シンプルですが、親にとっては「されど音読」です。
◆わが家のリアルスケジュール
わが家は共働き家庭。
当時の平日はこんな感じでした:
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19:00 仕事から帰宅、急いで夕食とお風呂の準備
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19:45 家族そろって食事(ここが唯一の会話タイム)
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20:30 片づけ、お風呂、髪の毛を乾かして
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21:00 学校の宿題の確認、提出物チェック
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21:30 ようやく就寝
──で、音読は?いつ?
学校からは「21時には寝ましょう」と言われています。
……無理ゲーです。
◆「読むことは大事」でも、だからこそ
もちろん、音読の目的はよくわかります。
読む力、発音、理解力、集中力──国語の力を総合的に育てるものです。
でも、毎日同じ教科書の文章を読むこと。
子どもにとっても飽きてしまい、形だけの「やったことにする」読書になる。
そして親は「聞いてサインする係」に……。
これでは、「読むことって楽しい!」という気持ちからは遠くなってしまいます。
◆本当は、読みたい本なら楽しめるのに
実際、ある日娘がふと持ってきたのは、お気に入りの物語絵本。
「今日の音読、これ読んでもいい?」
声色を変えて、抑揚をつけながら読んでくれる姿に、私は驚きました。
その声は、宿題の音読よりもずっと楽しそうで、内容への理解も深く見えたのです。
「読む力を育てる」のなら、
「読むことが好きになる」きっかけをもっと大切にできないだろうか。
そう思わずにはいられませんでした。
◆“家庭に丸投げ”ではなく、“一緒に考える”宿題に
音読に限らず、**「家庭でやってきてください」**という宿題の裏には、親の時間と心の余裕が必要です。
でも、現実には、それが厳しい家庭もたくさんあります。
共働き、ひとり親、介護中の家庭、兄弟姉妹のサポート──
「家庭に任せればできるはず」という前提は、そろそろ見直されてもいいのではないでしょうか。
◆おわりに──「声に出して読むこと」の原点に立ち返って
「音読」は本来、
読むことの面白さや、
伝えることの喜びを、
親子で分かち合えるような豊かな営みのはずです。
でも、それが「やらなきゃいけない作業」になった瞬間、学びの意味が色あせてしまいます。
声に出して読む力を育てたいなら、
“何を読むか”“どう読むか”の選択肢を、もう少し柔軟に。
そんな小さな見直しが、
親子の時間を守り、
読むことの楽しさを取り戻すきっかけになるかもしれません。