かつて図工が好きだった子どもが、「図工が嫌い」と言い出した。
そこには、創造や表現を「評価」や「型」に押し込む授業の問題があります。
“感じる副教科”としての図工の価値を、もう一度見直したいと思います。
■“うまく描けないから”嫌いになる
その背景には、学校教育における「評価の目」があります。
たとえば、「りんごを描いてみよう」という課題。ある子はリアルに、ある子は抽象的に、ある子は真っ赤な丸を描くかもしれません。
でも、教師や周囲の反応が「写実的=上手」「自由=雑」という空気だと、子どもたちは**“正解の絵”を探し始める**のです。
すると、本来自由であるはずの創作が、
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「うまく描けない自分はダメ」
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「先生にほめられない=失敗」
という自信の喪失と自己否定に変わっていきます。
■幼い頃の“創造の喜び”を取り戻すために
図工や美術は、感じたことを形にする教科です。
「なんとなくこの色が好き」「この形が楽しい」だけで十分。
でも、義務教育の枠に入った瞬間に、「指示どおり」「お手本どおり」「評価される作品」へと目的が変わってしまいます。
その結果、**「感じる」→「比べる」→「やめる」**というサイクルが生まれ、創造の喜びが失われていくのです。
■教師の言葉ひとつで変わる“表現の場”
たとえば、ある子どもが太陽を青く塗ったとします。
そのとき「太陽は赤や黄色じゃないの?」と言われるのか、「なんで青にしたの?なんかすごく静かな感じがするね」と言われるのか。
そのひと言で、「自由に表現していいんだ」という感覚が守られるか、つぶされるかが決まります。
“見る側の視点”が、子どもの表現を育てるか、萎縮させるかを左右するのです。
■図工の時間が“心の居場所”になるとき
子どもにとって学校は、常に「答えを求められる場所」です。
でも、図工・工作の時間だけは、感じたままに動いてもいい、表現してもいい時間です。
その自由さが、窮屈な教室の中にほんの少しの呼吸スペースを与えてくれます。
■おわりに
図工や美術は、テストの点では測れない心の動きや、感じたことのカタチを表す貴重な時間です。
「うまくなくていい」「自分らしく描いていい」と許される環境が、子どもたちの心にとって、どれだけ大きな意味を持つか――
今、あらためて考える必要があるのではないでしょうか。