感性の体験にも「格差」がある
感性は、特別な教育を受けなくても誰もが持っているものです。
けれども、その感性が豊かに育つかどうかには、”経験の「質と量」”が大きく関係しています。
音楽、美術、自然体験、舞台芸術――そうした“本物”にふれる機会が多い子どもは、感じる力を自然に育んでいきます。
しかしそれは、多くの場合、家庭の経済状況に左右されます。
バレエやピアノ、美術館やコンサートホールへのお出かけ、キャンプや海外旅行など、感性に刺激を与えるような体験は、費用も手間もかかるものです。
そのため、どうしてもそうした「豊かな経験」は、余裕のある家庭の子どもたちに偏りがちです。
習い事は“感性の受け皿”にもなるが…
今、民間の習い事やアートスクールなどでは、「感じること」「表現すること」を大切にしたプログラムがたくさんあります。
そこには、義務教育では得にくい自由な発想や個性の発露があり、子どもたちの心がぐんと広がる場になっています。
一方で、それらは月謝や送迎、時間的な余裕など、条件が整わなければ継続できません。
経済的に厳しい家庭や、ひとり親世帯などでは、そもそも選択肢に入らないことも多くあります。
親の工夫で“本物”にふれられる機会もあるけれど…
もちろん、すべての体験が高額であるわけではありません。
大学が開催する地域向けの無料ワークショップや、科学館・天文台の観察会、航空会社の工場見学、美術館の体験型展示、音大生による地域コンサートなど、探せば、低予算・高密度の“本物体験”も各地に存在します。
海辺で石を拾ったり、自然の中で虫の音に耳をすましたりするだけでも、子どもの感性は育ちます。
保護者のちょっとした工夫やアンテナの高さが、そうした経験を可能にすることもあります。
しかし、それが「できる家庭」と「できない家庭」があるという現実も、見過ごしてはいけません。
義務教育こそが“体験の格差”を埋める存在であってほしい
だからこそ筆者は思います。
家庭環境に依存しすぎない形で、“感じる学び”を保障するのが、義務教育の本来の役割ではないかと。
すべての子どもが、芸術や自然、科学、表現と出会う機会を持ち、心を揺さぶられる体験ができること。
それは、「知識の平等」と同じくらい、「感性の平等」として大切にされるべきです。
おわりに 〜“感性の土壌”を、すべての子どもに〜
子どもたちの心の奥に届く体験は、言葉にしにくくても、一生ものの財産になります。
だからこそ、学びの場がテストや評価のためだけではなく、「感じる時間」「心を震わせる時間」であってほしい――
すべての子どもに、感性の土壌が耕される教育を。
義務教育に、そんな役割をもっと期待してもいいのではないでしょうか?