今回から3回にわたって、「不登校」という現象をめぐって、私自身の体験や思いをもとに、子どもとの関わり方や社会のまなざしについて考えていきたいと思います。
第1回となる今回は、「不登校の原因」という言葉に潜む前提や、そこから見落とされがちな“個”の姿に焦点を当てます。
■「原因」を探す親心——でも、それは“理解”と同じではない
子どもが学校に行けなくなったとき、多くの保護者は戸惑いながら、こう自問します。
「いったい、何が原因なのだろう?」と。
体の問題か、心の問題か、それとも家庭の在り方なのか。
理由がわかれば、対処できるかもしれない——。
そんな想いが、「原因探し」へと親を向かわせるのは自然な流れでしょう。
けれども、その問いがいつしか「この子が不登校であることに、納得できる説明がほしい」という方向に傾きはじめたとき、
そこには**“理解したつもりになる社会”の構造**が見え隠れします。
つまり、原因という「ラベル」で安心したい大人たちの都合です。
それが、必ずしも子どもを“個として理解すること”に繋がるとは限らないのです。
■ よくある“原因”と、その語られ方
不登校の子どもについて語られるとき、よく耳にする“原因”には以下のようなものがあります:
もちろん、こうした要因が重なって子どもが苦しくなるケースは確かにあります。
でも、それをひとつの「わかりやすい答え」としてまとめてしまうことの危うさは見逃せません。
たとえば、「HSPだから集団生活が難しい」という言葉。
確かに一面の説明にはなるかもしれません。
でもその一言で、その子が感じている苦しみの具体的な輪郭や、背景にある文脈が、まるごと削ぎ落とされてしまうこともあるのです。
そして何より、「納得できる説明」が得られたとき、大人の側は“もうわかったつもり”になってしまう。
それは、その子自身の声を聴くプロセスを止めてしまうことにもなりかねません。
■ 「繊細で壊れやすい子」——支援のレッテル化
「この子は繊細なんです」
「ちょっと人より傷つきやすいタイプで……」
こうした言葉は、配慮を引き出すための説明として語られることがあります。
けれどその語りが定着すると、今度は「繊細で守られるべき存在」としての別のラベルになってしまう。
そしてその瞬間から、子どもは「支援される側」としての立場に置かれ続けるのです。
対等な関係性ではなく、「助ける側」と「助けられる側」。
その関係が長く続くと、やがて子ども自身も「自分は弱いから支援されるべき存在だ」と感じ始めてしまう。
これは、回復ではなく“固定化”です。
■ 支援の場でさえ、個が見えなくなるとき
不登校の子どもたちを支える支援機関やフリースクール、カウンセリングの場——
本来、子どもが“そのままでいていい”と感じられる場であるはずです。
けれど実際には、支援の現場でもこうした前提が見られることがあります。
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「この子は〇〇タイプだから、この対応を」
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「不登校の子には、こういうカリキュラムが合う」
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「親の対応が△△だったから、こういう困りごとが起きたのでは」
それぞれが善意からの対応であったとしても、そこには「不登校=○○な子」という決めつけに近い構造があります。
そして、支援の側に「支援している=理解している」という無意識の安心感があると、本当にその子が求めていることから目を逸らしてしまうこともあるのです。
■ 結論:「どんな理由でも、個として見られること」が出発点
不登校の理由は、本当にさまざまです。
体のこと、心のこと、環境のこと——
どれか一つに特定できないこともあるし、時間とともに変化することもあります。
でも、どんな理由であっても、出発点はただひとつ。
それは「この子がどう感じていて、何を大切にしているか」を丁寧に見つめること。
一人ひとりの子どもを、“ラベル”ではなく“関係の中で存在するひとりの人間”として見ること。
それが、不登校という現象の向こうにある本当の支援のはじまりです。
今回このブログを書くにあたり、私自身の体験から得た気づきが、単なる思い込みや勝手な解釈ではないかを確かめたくて、AIを使って教育学の研究を調べてみました。すると、私の考えに近い視点を持つ教育学の研究者が、確かに何人もいることがわかりました。以下に、その言葉を引用します。
◆ 苅谷剛彦(オックスフォード大学 教授)
「教育の目的は、子どもを型にはめて整えることではない。それぞれの子どもが、自分の可能性に気づき、それを伸ばしていけるような“関係”や“場”を整えることである」
——苅谷剛彦『教育改革の幻想』
◆ 本田由紀(東京大学 教授/教育社会学者)
「学校は子どもを均質な“能力の器”として見がちで、そこに当てはまらない子を“問題のある子”として扱う。これは教育の失敗ではなく、“多様性の排除”という構造的な特徴である」
——本田由紀『教育という病』