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発達グレー・不登校のその先へ——変わりはじめた〈学びのかたち〉

学校に通えなくなった子が、やがて自分のペースで動き出す——その姿から、私たちは教育の本質を見直すことができるのかもしれません。発達グレー・不登校の育児から見えてきた“学び”の形を綴るブログです。

管理から関係へ——「学校」という“場”の再設計に向けて

■「育ち合う場」としての学校——本当にそれは実現しているのか?

「学校は、子どもが育ち合う場です」

そんな言葉を聞いたとき、私の頭にまず浮かんだのは、子ども同士の関係性でした。
異学年で関わる活動、文化祭や体育祭などの行事を通して生まれるつながり——たしかに、そうした場面には“育ち合い”があるように思えます。

でも、ふと立ち止まって考えてみると、そこに「大人と子ども」の関係性は含まれているのでしょうか。

教師は「教える側」、子どもは「教えられる側」。
大人は「導く側」、子どもは「従う側」。
この上下の構図を、私たちはあまりに当然のものとして受け入れてはいないでしょうか。

たしかに、子どもは未熟な存在かもしれません。
けれど、だからといって、対等な関係を結ぶ必要がないということにはなりません。
むしろ、私は何度も経験してきました。
子どもの一言に大人の私がハッとさせられたり、
その素直さや率直さに心を揺さぶられたりする瞬間を。

「学校という場」もまた、子どもと大人がともに学び、育ち合える場に——
そんなふうに再設計することはできないだろうか。
そう思うようになった背景には、私自身の子育ての経験があります。


■「管理される側」になったとき、息子は立ち止まった

私の息子は、中学校で不登校を経験しました。

最初のうちは、なんとか学校とつながってほしいと思い、
先生から届く課題を本人に促したり、登校のタイミングを模索したりしていました。

けれど、次第に私は気づいていきます。
学校は、子どもに合わせてくれる場ではないのだということに。

休んだ分の課題はどんどん積み上がり、プリントは整理しきれなくなり、
先生とのやりとりも、どこか“評価”と“管理”の延長線上にある。
何よりそこには、「この子がどう感じているか」を問おうとする姿勢が、
すっぽり抜け落ちているように感じられました。

私は思います。
この子が立ち止まったのは、本人の弱さや未熟さのせいではありません。
「関係性の構造」そのものが、本人にとってあまりにも息苦しかったのです。

「子ども扱い」に見えるような指導、
「守るため」と言いながら、可能性を閉ざすような管理、
「成長を支える」と言いながら、実際には評価に追い立てられる日々。

そうした構造のなかで、子どもが感じるちいさな違和感は、
やがて「学校に行けない」という形であらわれてしまったのではないかと。


■ 子どもとともに「育つ」教師であっていい——再設計のビジョン

教育の場で、教師が子どもから学ぶ。
それは、決して「理想論」ではないと思っています。

子どもが問いかけてくる率直な疑問に、大人が思わず言葉を失うこともある。
「常識」や「正しさ」にとらわれた自分を、子どもの感性が解きほぐしてくれることもある。

そんな往復可能な関係のなかでこそ、教育は「管理する・される」関係を超えて、
「関わり合い、育ち合う」営みになっていくのだと、私は信じています。

もちろん、学校には秩序も必要です。
けれどその秩序が、上から押しつける管理によって支えられている限り、
子どもは本当の意味で「自分の学び」を手にすることができません。

教師もまた、学び手であっていい。
子どもと一緒に悩み、気づき、考え続ける存在であってほしい。

そうした関係性を育めるように、「学校という場」をもう一度見直してみたいのです。
それは、カリキュラムや制度の変更というよりも、
「子どもと大人の関係性をどう築くか」という視点からの再設計です。


■ 教育をもう一度「希望」の営みにするために

教育は本来、人と人が出会い、ともに成長する営みだったはずです。
けれど今、それが「管理」と「評価」の網に絡めとられ、
子どもも大人も、どこか息苦しさを抱えているように感じます。

私たちは、何を問い直すべきなのでしょうか?

制度?評価?学力?

その問いの出発点はきっと、子どもたち自身が教えてくれる。
私たちが「子どもを育てる側」から少し離れ、
「ともに育ち合う存在」として、隣に立つことができたとき——。

学校という場はきっと、今よりもっと希望をはらんだものになるはずです。
教育の可能性は、まだまだこれからなのだと、私は思っています。