2025-01-01から1年間の記事一覧
「学校は子どもが育ち合う場」と言われるけれど、大人と子どもの関係はどうだろう? 不登校を経験した息子との日々から見えてきたのは、「管理する側とされる側」という構造の違和感でした。教育を“関係”として捉え直すヒントを綴ります。
「一斉授業・評価重視」で育てきれない力がある。今の制度の中で、低学年から“人として育つ教育”を取り戻すには?
「主体的・対話的で深い学び」「生きる力を育む」——理念はすばらしいのに、なぜ教育現場は真逆に進んでしまうのか? 不登校を経験した親の視点から、制度と文化の“ズレ”を見つめ直します。
副教科は本来、子どもの感性や創造性を育てる教科のはず。それなのに、なぜ評価と管理の対象になってしまうのか?不登校を経験した息子の言葉から、文科省の掲げる“理念”と”現実”のギャップを見つめ直します。
学校が苦手になった息子が、もう一度“感じること”を取り戻したのは、音楽室でも、美術室でもなかった——。
不登校は“本人の問題”なのか?息子の経験から見えてきたのは、教育現場に根づく「管理構造」でした。今、子どもと大人の関係を問い直す。
発達障害の子が不登校になる本当の理由とは?「障害だから」ではなく「構造とのミスマッチ」だったという気づきを綴ります。
不登校は甘えではなく、「壊されないための行動」だった——。発達グレーの息子が語った“学校の理不尽さ”から、教育における子ども扱いと管理構造の問題を考える実体験記。
不登校の息子に対し、学校・児相・医師と複数の支援を受けた母の実体験。支援があっても届かなかった「本人の生きづらさ」と、“制度の枠組み”の限界を問い直す記事です。WISC結果や家庭での関わりから、支援の本質を考えます。
不登校を経験した息子が、通信制高校で制服も登校も自分で選び、笑顔で過ごす日々へ。義務教育のあり方を問い直します。
発達グレーで不登校経験のある息子が語った「普通の高校に行きたい」。中学3年の1年間、本人のペースで登校しながら進路と向き合った家族の記録。「普通って何?」と問い直す、進学選択のリアル。
児童相談所への一時保護を決断した母親が、その後の心情や息子の変化を綴ります。「やりすぎたのでは」と揺れるなか、少しずつ気づいた“信じて待つ”という支援のかたちとは——。
思春期で不安定な息子を児童相談所に預けた母の決断。娘の受験を守るため、そして近すぎた親子関係を見つめ直すための実録。
不登校の息子は「社会性がない子」ではありませんでした。むしろ、学校以外ではスムーズに人と関われる一面も。制度の隙間に苦しんだ半年間を、親の視点から綴ります。
発達障害グレーの中学生だった息子が、ある日ぽつりと「僕、病気なのかな」とこぼした一言。学校から離れ、昼夜逆転やゲーム依存が進むなかで見えた“助けて”のサイン。親子で児童精神科に通うまでのリアルな記録を綴ります。
思春期に入り会話ができなくなった息子。逃げ場はゲーム。課金で家族のお金を盗み、警察・児童相談所と関わる中で見えた不登校の現実を母親が綴る。
思春期を迎えた不登校気味の息子は、ストレスからゲームや動画に逃げるようになりました。「ゲームって逃げなんだよね」——その一言に見えた心の叫びと、家庭でできる限界について考えます。
「とりあえず学校へ」が逆効果になることも。不登校初期の親の対応と、学校との関係を見直すリアル体験記。
学校で“指導対象”となった息子。けれど彼は「危険なことはしない」とわかっていた──小学校での対応に疑問を抱いた親の視点から、発達グレーと教育現場のすれ違いを描く体験記です。
学校から「また暴れました」と連絡が来るたびに、私は思っていました――今日も気持ちを受け止めてもらえなかったんだ、と。不登校へ向かう“サイン”を見落とさないで。
「毎日出される音読の宿題──共働き家庭のタイムスケジュールでは無理がある現実。『読む力を育てる』本当の方法を、親子の体験から問い直します。」
子どもが描いた自画像に「鼻の形が違う」と指摘──“否定”から始まる図工指導の現場で、親として感じた違和感と、表現を育てる教育のヒントを考えます。
「まだ習っていない漢字は書いてはいけない?」子どもの“学びたい気持ち”を守るための家庭の選択を綴ります。
感じる力を育む前半、選ぶ力を伸ばす後半──子どもの発達に合わせた「2段階義務教育構想」を提案。体験から自律へ。これからの教育の可能性を考えます。
感性をどう育て、どう評価するのか? EQ(心の知能指数)を軸に、北欧の教育事例や体験型学習の意義から、義務教育のあるべき姿を探ります。
感性や創造力をどう「評価」するのか? 点数では測れない“心の動き”と、義務教育における学びの本質を見つめ直します。
学校からの「家庭でのサポート」要請が、親の負担や格差を生んでいないか? 義務教育の役割と、“協力”と“依存”の境界線について考えるブログ連載第5回。
芸術や創作体験の機会は、家庭の経済力によって大きく左右されます。習い事や本物体験が“特権”にならないように、義務教育が果たすべき役割とは何か。教育格差と感性体験について考察。
「うまく歌えるか」より「どう感じたか」。音楽の授業で求められる“正解”が、子どもたちの音への喜びを奪っていないか。民間の音楽体験と比較しながら、“音を楽しむ感性”について考える。
幼い頃は誰もが好きだったはずの「描く・作る」こと。なぜ学校で「図工嫌い」になる子が増えるのか?義務教育における副教科のあり方を見つめ直し、子どもの“感性”が育つ教育について考える連載第2回。